10キロ超えスコティッシュのサンダーとあわてんぼママです
2018年12月19日
フアニとロンガ その2
フアニとロンガ その2
そのような村のひとつに、ギィは暮らしていた。
気の良い若者で、有能な農夫だった。妻にとっては尽くし甲斐のある夫であり、優しい父親でもあった。
そして、村に生まれ育ったほとんどの農夫と同様、木こりや大工の仕事もすれば狩りもした。
その日、ギィは森へ狩りに出かけた。
森で狩りをする者は決まり事を守る。簡単な決まり事である。獲物に欲はかかず、陽のあるうちに家路につく。
たとえ肥えたシカを見つけて追ったとしても、陽の光が届かぬほど暗い森の奥深くまでには足を踏み入れない。
そこは野獣の領域なのだから。
さて、ギィは腕の良い猟師でもあった。
早々と数羽のウサギとキジを仕留め、帰りの支度を始めた時、目の前の茂みがカサカサと音を立てた。
とっさに弓矢を構えて近づいてみると、そこには奇妙な生き物の姿があった。ふさふさとした尻尾を体に巻きつけてうずくまっているその動物は、人間を見ても怖れず逃げもせず、なぜかめそめそと泣いている。
ギィにはそれが野獣の仔であることが分かった。
野獣を自分の目で見たことがあるわけではない。最後のシーズンからすでに彼の年齢よりずっと長い年月が過ぎていた。
しかし野獣の外観については細部に至るまで聞き知っており、一致する特徴を、その生き物は備えていたのである。
ギィの祖父は野獣の最後の目撃者だった。
祖父は子供時代、あの恐ろしい夏至の宵に、戸板のゆるんだ窓を破り幼い妹をさらってゆく野獣を「返せ、返せ!」と追いかけようもむなしく親たちに引き留められたという。
その時は、やはり取り戻そうと立ち向かった男衆二人が命を落とした。
祖父は晩年に至るまでその話を繰り返し語った。
ギィの父も、それを息子に語り継いだ。
「野獣たちの身の丈は人間の二倍ほどもあった。毛むくじゃらの体は邪悪な暗黒の色をして嫌な臭いを放ち、額には悪魔のしるしの角が、背中は棘のある鱗に覆われ、鋭い牙と禍々しい鉤爪を長く伸ばしていた。その目はオオカミよりも冷酷な銀色に光っていた」
今、ギィの足もとにいるそれは、聞いた話よりもずいぶん小さくて、小型のヤマネコくらいの大きさしかなかったし、背負っている獲物のウサギほどにも匂わない。体毛は黒いどころかミルクのような白色で、ところどころに砂色と麦わら色の混じった模様が散っているだけである。
だが、その額には小さな角があった。ふわふわとした被毛の下に、後頭部から尾の先までひとすじに連なる堅い鱗が背骨を保護している。口元には牙が覗き、ふっくらした足先には鋭い鉤爪を隠し持っているのが見てとれた。
成長した個体になれば、祖父が言った通りの恐ろしい武器になりそうだった。
しかし・・・ギィは首をひねった。なぜいま、ここに子供などいるのだろう?
「だが、いずれにしろこいつが奴らの仲間であることに間違いはない」ギィは思った。
「ここで殺してしまえば、村の災いを先延ばしにできるだろう」
ギィは矢を引き絞り、野獣の仔の眉間を間近に狙った。
野獣の仔は射手を見上げた。丸い顔にきょとんとした幼い目。瞳は明るく柔らかな色合いをしている。
ギィは唐突に幼い娘を思い起こした。
小さなフアニ。生まれた時、あまりに小さいので不安になった。健康に育ってくれるものかどうか確信が持てず、懸念が妻のユェンにうつらないよう気を配らねばならなかった
。目の色も髪の色も薄く、発育も遅かったが、ようやくつかまり立ちが出来るようになったと思うと、あっという間に歩き始め、言葉も理解するようになった。
今朝も出かけるギィの後を追って来たので、抱き上げて早く帰ると約束した。
ユェンの腕で『バイバイ』をする姿は、たとえようもなく愛らしかった。
ギィは弓をおろした。
幼いものを殺す気が失せていた。
だが、野獣を見つけておいて野放しにするなど、後々を考えれば危険極まりないことである。
そもそもこのような出会いに選択肢は多くない。さらに言えば、ギィは慎重な男ではあったけれども、時として子供っぽい冒険心が優位に立つ場合があった。
「こいつを飼い慣らせるものだろうか・・・?」
ギィは一番小さなウサギを取り出して、野獣の仔の鼻先に差し出した。
「俺についてくるなら御馳走をやろう」
ところが野獣の仔は、喰いついてくるどころか後じさり、「ご冗談を」とでも言いたげに死んだウサギを見おろしただけである。
そして、気になるのはもっと違った物だとでも言うように、ギィの服の匂いを嗅ごうと鼻をひくひくさせている。
「何が欲しいんだ?」ギィに思い当たるのは、腰に下げた鞄くらいだった。鞄の中には軽食用に平たいパンが入っている。まさかと思いながらも与えてみると、前足で受け取って嬉しそうにかじり始めた。
「肉嫌いの野獣とは、おかしな奴だな・・・さあ、パンなら家にまだあるぞ!」
こうしてギィは、野獣の仔を家に連れ帰った。
「ギィ、あなた、どうかしてるわ」妻は言った。
ちょうど台所で娘に離乳食を食べさせていたところである。
普段は穏やかな性格で、まれに思い付きで行動する傾向のある夫に振り回されることもなかったが、これには驚きのあまり次の言葉もなくしていた。
「大丈夫だよ、ユェン、こいつはおとなしい。何か食べる物を・・・」
ギィが言い終える前に、野獣の仔はまっすぐフアニのそばに行き、鼻づらを押し付けて匂いを嗅ぎ始めた。
それはちょうど、ユェンが咄嗟に立ち上がったせいで赤ん坊が椅子から転げ落ちそうになるところを支えて椅子に戻したかっこうになった。
フアニはこの珍客にたいそう喜び、小さな手でふわふわした被毛をなでたり叩いたり、ぎょっとして引き離そうとする親の腕にイヤイヤをして、今度は自分の食べていた粥のスプーンを野獣の口に押し込む始末である。
「まんまよ!まんま!」
野獣の仔はされるがまま、むしろ嬉しそうに残りの離乳食を飲み込んでしまった。
「まあ、呆れた」食事を終えた幼児と幼獣が、そのまま互いにもたれ合って居眠りを始めると、ユェンはようやく感想を述べた。
「でも、やっぱり危険だと思うわ、ギィ」
「心配いらないよ」ギィはささやいた。
「怪しい気配を見せたら、すぐに殺すつもりだ」
そしてその夜、娘を寝床に入れた後で、ギィは野獣の仔の首にそっと縄をつけ、反対側の端を石の柱に結わえた
。野獣の仔はうっすらと目を開けたものの、とりたて嫌がるふうでもなく、穏やかなため息をひとつついて再び眠りに落ちた。
翌朝、フアニは目覚めると真っ先に野獣の仔のそばへ行った。
何やら片言で話しかけては面倒を見ようとする。まるで弟が出来たかのような可愛がりようであるが、実際のところ面倒を見ているのは野獣の仔の方で、幼いフアニがかまどや刃物などに近づかないよう上手に誘導して遊ばせている。
フアニが転んで泣き出しても、ユェンなら放っておくところを、さてはこの世の一大事とばかりに駆け寄ってなぐさめた。
噛みつくような素振りもなく、逃げ出そうともがくわけでもなく、そもそも赤ん坊のお守りをするためにこの家にやって来たかのような態度である。
ユェンにしてみれば、糸紡ぎや機織りなど、日々の仕事がはかどると言えなくもなかった。
ギィとユェンは、この奇妙な生き物を注意深く見守っていた。
しかし、彼らが危惧するようなことは何も起こらなかった。
野獣の仔は手間のかからない生き物だった。
餌に関しては他の家畜ほどにも気を使わない。
ユェンが試しに与えた野菜くずや芋の切れ端を有難そうに押し戴いて食べ、フアニの粥の食べ残しやギィが投げてよこすリンゴなどは御馳走の部類である。
それでもギィは用心のため、自分が戸外に出ている時と眠る時は野獣の仔を繋いだままにしておいた。
野獣の仔が自由に動き回れるのは台所の土間だけに限られていたが、至極当然の事として受け入れているようである。
夜になってフアニを寝かせつけた後は、かまどの前で丸くなる。
ユェンがそっと窺うと、どこか満ち足りたような寝顔を見せていた。
ユェンは夫にささやいた。
「もしかしたら、森に独りぼっちでいたのが寂しかったのかも知れないわ」
そんなふうに考えたら、始末せざるを得なくなった場合に心が鈍るだろうな・・・
そう思いながらギィは眠りについた。
次回へ続く
そのような村のひとつに、ギィは暮らしていた。
気の良い若者で、有能な農夫だった。妻にとっては尽くし甲斐のある夫であり、優しい父親でもあった。
そして、村に生まれ育ったほとんどの農夫と同様、木こりや大工の仕事もすれば狩りもした。
その日、ギィは森へ狩りに出かけた。
森で狩りをする者は決まり事を守る。簡単な決まり事である。獲物に欲はかかず、陽のあるうちに家路につく。
たとえ肥えたシカを見つけて追ったとしても、陽の光が届かぬほど暗い森の奥深くまでには足を踏み入れない。
そこは野獣の領域なのだから。
さて、ギィは腕の良い猟師でもあった。
早々と数羽のウサギとキジを仕留め、帰りの支度を始めた時、目の前の茂みがカサカサと音を立てた。
とっさに弓矢を構えて近づいてみると、そこには奇妙な生き物の姿があった。ふさふさとした尻尾を体に巻きつけてうずくまっているその動物は、人間を見ても怖れず逃げもせず、なぜかめそめそと泣いている。
ギィにはそれが野獣の仔であることが分かった。
野獣を自分の目で見たことがあるわけではない。最後のシーズンからすでに彼の年齢よりずっと長い年月が過ぎていた。
しかし野獣の外観については細部に至るまで聞き知っており、一致する特徴を、その生き物は備えていたのである。
ギィの祖父は野獣の最後の目撃者だった。
祖父は子供時代、あの恐ろしい夏至の宵に、戸板のゆるんだ窓を破り幼い妹をさらってゆく野獣を「返せ、返せ!」と追いかけようもむなしく親たちに引き留められたという。
その時は、やはり取り戻そうと立ち向かった男衆二人が命を落とした。
祖父は晩年に至るまでその話を繰り返し語った。
ギィの父も、それを息子に語り継いだ。
「野獣たちの身の丈は人間の二倍ほどもあった。毛むくじゃらの体は邪悪な暗黒の色をして嫌な臭いを放ち、額には悪魔のしるしの角が、背中は棘のある鱗に覆われ、鋭い牙と禍々しい鉤爪を長く伸ばしていた。その目はオオカミよりも冷酷な銀色に光っていた」
今、ギィの足もとにいるそれは、聞いた話よりもずいぶん小さくて、小型のヤマネコくらいの大きさしかなかったし、背負っている獲物のウサギほどにも匂わない。体毛は黒いどころかミルクのような白色で、ところどころに砂色と麦わら色の混じった模様が散っているだけである。
だが、その額には小さな角があった。ふわふわとした被毛の下に、後頭部から尾の先までひとすじに連なる堅い鱗が背骨を保護している。口元には牙が覗き、ふっくらした足先には鋭い鉤爪を隠し持っているのが見てとれた。
成長した個体になれば、祖父が言った通りの恐ろしい武器になりそうだった。
しかし・・・ギィは首をひねった。なぜいま、ここに子供などいるのだろう?
「だが、いずれにしろこいつが奴らの仲間であることに間違いはない」ギィは思った。
「ここで殺してしまえば、村の災いを先延ばしにできるだろう」
ギィは矢を引き絞り、野獣の仔の眉間を間近に狙った。
野獣の仔は射手を見上げた。丸い顔にきょとんとした幼い目。瞳は明るく柔らかな色合いをしている。
ギィは唐突に幼い娘を思い起こした。
小さなフアニ。生まれた時、あまりに小さいので不安になった。健康に育ってくれるものかどうか確信が持てず、懸念が妻のユェンにうつらないよう気を配らねばならなかった
。目の色も髪の色も薄く、発育も遅かったが、ようやくつかまり立ちが出来るようになったと思うと、あっという間に歩き始め、言葉も理解するようになった。
今朝も出かけるギィの後を追って来たので、抱き上げて早く帰ると約束した。
ユェンの腕で『バイバイ』をする姿は、たとえようもなく愛らしかった。
ギィは弓をおろした。
幼いものを殺す気が失せていた。
だが、野獣を見つけておいて野放しにするなど、後々を考えれば危険極まりないことである。
そもそもこのような出会いに選択肢は多くない。さらに言えば、ギィは慎重な男ではあったけれども、時として子供っぽい冒険心が優位に立つ場合があった。
「こいつを飼い慣らせるものだろうか・・・?」
ギィは一番小さなウサギを取り出して、野獣の仔の鼻先に差し出した。
「俺についてくるなら御馳走をやろう」
ところが野獣の仔は、喰いついてくるどころか後じさり、「ご冗談を」とでも言いたげに死んだウサギを見おろしただけである。
そして、気になるのはもっと違った物だとでも言うように、ギィの服の匂いを嗅ごうと鼻をひくひくさせている。
「何が欲しいんだ?」ギィに思い当たるのは、腰に下げた鞄くらいだった。鞄の中には軽食用に平たいパンが入っている。まさかと思いながらも与えてみると、前足で受け取って嬉しそうにかじり始めた。
「肉嫌いの野獣とは、おかしな奴だな・・・さあ、パンなら家にまだあるぞ!」
こうしてギィは、野獣の仔を家に連れ帰った。
「ギィ、あなた、どうかしてるわ」妻は言った。
ちょうど台所で娘に離乳食を食べさせていたところである。
普段は穏やかな性格で、まれに思い付きで行動する傾向のある夫に振り回されることもなかったが、これには驚きのあまり次の言葉もなくしていた。
「大丈夫だよ、ユェン、こいつはおとなしい。何か食べる物を・・・」
ギィが言い終える前に、野獣の仔はまっすぐフアニのそばに行き、鼻づらを押し付けて匂いを嗅ぎ始めた。
それはちょうど、ユェンが咄嗟に立ち上がったせいで赤ん坊が椅子から転げ落ちそうになるところを支えて椅子に戻したかっこうになった。
フアニはこの珍客にたいそう喜び、小さな手でふわふわした被毛をなでたり叩いたり、ぎょっとして引き離そうとする親の腕にイヤイヤをして、今度は自分の食べていた粥のスプーンを野獣の口に押し込む始末である。
「まんまよ!まんま!」
野獣の仔はされるがまま、むしろ嬉しそうに残りの離乳食を飲み込んでしまった。
「まあ、呆れた」食事を終えた幼児と幼獣が、そのまま互いにもたれ合って居眠りを始めると、ユェンはようやく感想を述べた。
「でも、やっぱり危険だと思うわ、ギィ」
「心配いらないよ」ギィはささやいた。
「怪しい気配を見せたら、すぐに殺すつもりだ」
そしてその夜、娘を寝床に入れた後で、ギィは野獣の仔の首にそっと縄をつけ、反対側の端を石の柱に結わえた
。野獣の仔はうっすらと目を開けたものの、とりたて嫌がるふうでもなく、穏やかなため息をひとつついて再び眠りに落ちた。
翌朝、フアニは目覚めると真っ先に野獣の仔のそばへ行った。
何やら片言で話しかけては面倒を見ようとする。まるで弟が出来たかのような可愛がりようであるが、実際のところ面倒を見ているのは野獣の仔の方で、幼いフアニがかまどや刃物などに近づかないよう上手に誘導して遊ばせている。
フアニが転んで泣き出しても、ユェンなら放っておくところを、さてはこの世の一大事とばかりに駆け寄ってなぐさめた。
噛みつくような素振りもなく、逃げ出そうともがくわけでもなく、そもそも赤ん坊のお守りをするためにこの家にやって来たかのような態度である。
ユェンにしてみれば、糸紡ぎや機織りなど、日々の仕事がはかどると言えなくもなかった。
ギィとユェンは、この奇妙な生き物を注意深く見守っていた。
しかし、彼らが危惧するようなことは何も起こらなかった。
野獣の仔は手間のかからない生き物だった。
餌に関しては他の家畜ほどにも気を使わない。
ユェンが試しに与えた野菜くずや芋の切れ端を有難そうに押し戴いて食べ、フアニの粥の食べ残しやギィが投げてよこすリンゴなどは御馳走の部類である。
それでもギィは用心のため、自分が戸外に出ている時と眠る時は野獣の仔を繋いだままにしておいた。
野獣の仔が自由に動き回れるのは台所の土間だけに限られていたが、至極当然の事として受け入れているようである。
夜になってフアニを寝かせつけた後は、かまどの前で丸くなる。
ユェンがそっと窺うと、どこか満ち足りたような寝顔を見せていた。
ユェンは夫にささやいた。
「もしかしたら、森に独りぼっちでいたのが寂しかったのかも知れないわ」
そんなふうに考えたら、始末せざるを得なくなった場合に心が鈍るだろうな・・・
そう思いながらギィは眠りについた。
次回へ続く
Posted by サンダーのママ at 11:08│Comments(0)
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